死ぬというのはふしぎなもので、瀕死の状態でベッドにいる人を見て、ああこれは今日明日中に死んでもおかしくないなあ、と思っていても、いざ本当に翌日死なれるとびっくりする。死ぬこと自体はべつにこわくない。むかしは、恐怖は死につながる苦痛にあると想像していたけど、いまは、死を恐れる気持ちの本質は、それがいつ来るかわからないところにあるんじゃないかと思う。
そう思うと、病気とか災害とか、いつ来るかわからないことなんていくらでもあるんだけど、死はやっぱり特別。それが来たということが、自分には(たぶん)わからない、というか最後までをはっきり認識というか把握というか、自分で自分の死を最後まで見届けることはできないのがこわい。
いつ訪れるかわからない死をなんとか予知したくて、健康診断や占いがある。死期を予測した後は、それが当たるか当たらないかが気になる。当たらなければ「当たらなかった」と思えるけど、当たったら「当たった」と思うことのできる前に死んでるので、結果がわからないままだ。
だからいつ死んでも構わないように、死ぬまでの間はとにかく生きる、ということしかいまは思いつかない。きっとそういう思いを助けるために宗教はあるんだろう。私は人と共感するのがきらいなので、大勢で集まって祈ったり、それについて話し合ったりしたくない。個人のための宗教があったらいい。私が教祖で私が信者で、だれにもそれを打ち明けない宗教。人はだれでも、そういう宗教を持っているのかもしれない。人はだれでも神になれる。
でも死ぬ。
死ぬから宗教とか言ってられる。死んだ人はこれ以上死なないので、安心して眺めていられる。墓に参ったりなんかして。見えるはずもないのに花を供える。墓を、花を、見ているのは私の目で、死人じゃない。でも死んだ人のためにしてあげられることなんかもう何もないので、しきたりを真似て花でも供えるしかない。葬儀は、残された人のためにやるものである、ということが実感できる年齢になった。
私の都合では、私の遺灰とか位牌とか、そんなのは保存しないでほしいけど、遺族がいる限りは、遺族にまかせた方がいいんだろう。ちゅう太には私より長く生きてほしいので、悪いけど後はまかせる。こんな遺骨捨ててやると思うよりは、花でも供えてやりたいと思えたほうがきっと幸せなので、まあほどほどに仲よく暮らしていきたい。今日は父の初の月命日。
私は長いこと、父が嫌いだった。年取ってからはお互い丸くなったけど、血気盛んだったころの両親はよくケンカをしていた。そんなとき子どもは無条件に母親の味方をするものだ。母親が怒鳴ったってたいしてこわくないけど、父親はちょっと声を荒げるだけでとてもこわかったので。そして父が母のことをバカ呼ばわりするのがとてもいやだった。母がいつもかわいそうで、どうしてリコンしないのかなあなんて姉と話し合ったりしていた。
大人になって結婚などもした後で、やっと客観的に親を見られるようになったら、母が耐えるだけの人ではなく、実はけっこう大したタマだったことがわかってきた。きちょうめんな父とは真逆で、父からすると我慢できないようなこともきっと何度もしてきたんだろうと想像できる。そこでやっと父を見直し、夫婦は結局お互い様だ、父あっての母だったのだなあなんて思えるようになったけど、元々距離のあった(私の子ども時代に両親は忙しく、一緒に出かけたり遊ぶようなことはほとんどなかった)間柄。父に本音でぶつかるようなことはなかった。
母とはお互いつい本音を漏らして甘えてしまうこともあるけど、父とはお互い一歩引いて、親しみのこもった礼儀を保ちつつ接してきた。対父親としてはそれが正解だったと思うんだけど、こうあっさり死なれてみると、もうちょっと別の関わり方もあったんじゃないかなあなんて思ったりする。
まあそれも死んだからこそ思えたことである。生きている人を見直したり関係性を変えたりすることはむずかしい。生前、父に文句ばっかり言ってた母は今すごくさみしそうだ。父の抜けた穴は父だけのもので、実子にも孫にも埋めることはできないということはなんとなくわかる。母は今、生まれて初めての一人暮らしをしている。
また別のママ友の家庭ににごたごたが生じ、彼女の愚痴をよくよく聞いた後、彼女の漠然とした思いを「こういうことを言いたいのではないか」と文章にまとめて見せたら、思いのほか感謝され、ごたごた解決の糸口につながるかもしれないようだった。
またまた別のママ友にもいろいろあって、それは解決済みなのだが、噂を聞いて「なんか大変だったんだって?」と声をかけたら、「この大変な一か月間を何か形にして残したいのだが、書いてもらえない?」と相談された。
ギャラは発生しないが、最近そんな草の根ライター仕事が続いて、とても楽しい。ライターには向いていなかったと思ってほんとに完全にやめたつもりなんだけど、この流れには何とも言えない手ごたえを感じていて、これを仕事にすることはできないだろうか、と検索してみると、自費出版の自分史ゴーストライターというのが出てきた。これなのか? よくわからない。
街角になんでも相談できるオバチャンがいる的なかんじで、うまくまとまらないもやもやした気持ちを話すと文章化してくれるサービス。辻占い師ならぬ辻ライター? そんなん成立しないか。
さて勉強に戻らなくては
棚のすきまに積まれた写真。
プリントするたびにここに置いて、いつかアルバムに貼ろうと思いつつ、気がつけばちゅう太2歳の誕生以降一度も貼ってない。
たまればたまるほど貼る気が萎える。でも3歳の誕生日までには何とかしたい。これのせいで新たなちゅう太写真を撮るのも控えめになってしまった。
そこで今この写真の厚みを測ってみたら6.5cmだった。夜ふとんの中で「あーあれなんとかしなきゃー」と悶々と考える時、イメージの中では厚さ30cmくらいになっていたので安心した。
大丈夫!まだ6.5cmよ!がんばれ私!
このごろ育児日記を書きたい気持ちが急速に無くなってきた。ちゅう太アルバム作りのやる気の無さも同じ理由だろう。もうちゅう太は我が家に神様が寄越してくれた小さなお客様、ではなくなり、あたりまえにいる家族の一員になったのだと思う。よくある家族のつまらん話をいちいち世間様に向けて書く必要ないし。
2歳くらいまではまだお客様気分が残っていて、何でもちゅう太様最優先のお取り扱いだったのだが、このごろはそうでもない。ちゅう太の特別度は、行列のできるパティスリーのふわっふわ生クリームのケーキ(本日中にお召し上がりください)から、スーパーのパン売り場の横に置いてあるまんじゅう(賞味期限1週間くらい)になった。もちろん私はそんなまんじゅうが好きだし、私にとってちゅう太が一番大事な人であることには変わりないのだけど。
思えば子ども産んで一番エキサイティングなのって2歳くらいまでなんだよなたぶん。ねんね期からハイハイ期、そしてあんよ期に移った時、家具の配置から生活の仕方まで何もかもが変化した。離乳食から普通食への時期、朝から晩まで私の頭の中には食材のことしかなかった。新しい時期に移った途端、以前の知恵や道具類は全部いらないものになり、何もかもゼロからスタートすることになった。ちゅう太の変わる瞬間をとらえたくてデジカメもビデオカメラも即取り出せるようになっていた。あんな急激な変化の連続は今後もうない。人間としての内面の成長はあるだろうが、私が必死に追ってきたのは生き物としてのちゅう太だった。ちゅう太の内面はちゅう太自身の問題なので私にはどうしようもない。私がしたかったのはやっぱり動物の飼育だったみたいだ。
長いこと育児関連の本しか読めなかったはずの私は、去年の暮れから急にマンガを読むようになり(読んでる間ちゅう太にはDVDを見せてほっとく)、テレビもろくに見なかったのが急にyoutubeで過去見逃したお笑い番組とか見漁るようになり、今年に入ったら急に動物を飼いたくなった。もう少ししたら金魚を飼う(今日ペットショップに下見に行ってきた。キャリコ琉金とコメットが気に入った)。あとまたハムスターいくかもしれない。そしてゆくゆくは猫か犬。それはちゅう太が世話を担当できるようになったらのお楽しみだ。とりあえず写真の整理をがんばれ私。
降ろしてやるとまたすぐよじのぼって泣く
散髪に失敗、頭頂部がひよこのようになっている
遅ればせながら森繁久彌が死んでしまい悲しい。たまにオヤジのヒゲの再放送を見てたので若い気がしてたけど(じじいの役だけど)老衰というのがなんかうれしい。オヤジや社長など偉い役が多いけど、私は「猫と庄造と二人のをんな」とか「夫婦善哉」などのダメ男な森繁が一番好きだ。でも偉い役は年とってからだから、単に若い男が好きなだけかもしれない。追悼のため久しぶりにCDを聴いたが、知床旅情はいつ聴いてもふざけているように思えてならない。「しぃろほおひいカモメよほぉぉぉぉ~」とか気持ちよく歌いすぎだろう。フラメンコかっぽれは何度聴いても意味がわからず、これで紅白出たんだからいい時代だったんだなと思う。 次郎長三国志を去年録画したままで早く見なくてはと思いながらずいぶん経ってしまった。きっとまたBSで特集をやるだろう。そして録画して安心して見ないまままた日々が過ぎ、またそのうちほかのだれかが死んでハードディスクの空きを増やさなくちゃならなくなる日が来るから生きている我々は撮った番組はすぐ見るようにし、今できることは今やり、限りある時間を大切にしなくてはならない。
先週母&兄を回転寿司に連れてったとき公園の中を通ったら、母は大きなどんぐりが落ちている!と言って拾おうとするので、私と兄とで「やめなよ」と言ってやめさせた。母は、だってこんなに大きなどんぐり、食べたいくらいだわ、と言った(食べられないことは承知の上で)。
うちの絡まりまくるパソコンケーブル類や書類の引き出しを見た母曰く、うちの子はみんないい子だった、コンセントプラグをいじったり引き出しをひっくり返したりするようなことはなかった、とのこと。実家は広かったし、引き出しやプラグなんぞ瑣末なものよりもおもしろいもの(もっと危険なもの)がいっぱいあったからだと思う。私のおぼろげ記憶でも、兄が夢遊病で夜中外に飛び出したり、私と姉がケンカして布団におしっこかけたり、長じては金髪だピアスだ外泊だ事故だ一人暮らしだ離婚だのと(これらは全部私)いろいろ面倒をかけたはずだのに、母の中ではそんなの全部ひっくるめて「いい子」ってことになっているのがすごいなあと思う。父は理想の夫とは思われず、祖父母も舅姑としてはキツい存在だったはずなんだが、今となっては全部が良い思い出になっているらしい。何があっても母は大きなどんぐりを見つけたら幸せになっちゃう人だ。
私に子供ができたらたぶん、その子は引き出しをひっくり返し、プラグをいじっては感電すると思う。うちは狭いし、ほかにおもしろそうなものもないから。そのうち髪を染めるだの夜遊びしたいだのこんな家に生まれたくなかっただのと言いだすんだろう。それをいい子だなんて思うのは、その子が長じた後に振り返ればいいことで、とりあえずは子供をひっぱたいて叱らなくちゃならないんだろう、この私が。
たいした苦労もせず、いつまでたっても「末っ子」のまま四十路を迎えんとする私には、母の気持ちがたぶんまだ本当にはわかっていない。秋の日の午後、子供と歩く公園で大きなどんぐりを見つけた瞬間に湧き上がる喜びの実感を。