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2014'02.07.Fri

死ぬというのはふしぎなもので、瀕死の状態でベッドにいる人を見て、ああこれは今日明日中に死んでもおかしくないなあ、と思っていても、いざ本当に翌日死なれるとびっくりする。死ぬこと自体はべつにこわくない。むかしは、恐怖は死につながる苦痛にあると想像していたけど、いまは、死を恐れる気持ちの本質は、それがいつ来るかわからないところにあるんじゃないかと思う。


そう思うと、病気とか災害とか、いつ来るかわからないことなんていくらでもあるんだけど、死はやっぱり特別。それが来たということが、自分には(たぶん)わからない、というか最後までをはっきり認識というか把握というか、自分で自分の死を最後まで見届けることはできないのがこわい。


いつ訪れるかわからない死をなんとか予知したくて、健康診断や占いがある。死期を予測した後は、それが当たるか当たらないかが気になる。当たらなければ「当たらなかった」と思えるけど、当たったら「当たった」と思うことのできる前に死んでるので、結果がわからないままだ。

だからいつ死んでも構わないように、死ぬまでの間はとにかく生きる、ということしかいまは思いつかない。きっとそういう思いを助けるために宗教はあるんだろう。私は人と共感するのがきらいなので、大勢で集まって祈ったり、それについて話し合ったりしたくない。個人のための宗教があったらいい。私が教祖で私が信者で、だれにもそれを打ち明けない宗教。人はだれでも、そういう宗教を持っているのかもしれない。人はだれでも神になれる。

でも死ぬ。

 

死ぬから宗教とか言ってられる。死んだ人はこれ以上死なないので、安心して眺めていられる。墓に参ったりなんかして。見えるはずもないのに花を供える。墓を、花を、見ているのは私の目で、死人じゃない。でも死んだ人のためにしてあげられることなんかもう何もないので、しきたりを真似て花でも供えるしかない。葬儀は、残された人のためにやるものである、ということが実感できる年齢になった。


私の都合では、私の遺灰とか位牌とか、そんなのは保存しないでほしいけど、遺族がいる限りは、遺族にまかせた方がいいんだろう。ちゅう太には私より長く生きてほしいので、悪いけど後はまかせる。こんな遺骨捨ててやると思うよりは、花でも供えてやりたいと思えたほうがきっと幸せなので、まあほどほどに仲よく暮らしていきたい。今日は父の初の月命日。

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