母が電話で、まだまだ雪が残ってて庭に出れないし普通の靴では歩けない、と脅かすので、ブーツじゃなきゃ無理かと思って礼服をやめて黒い平服で行ったが、たしかに庭はすごかったけど墓地や道は当然雪かきしてあって普通に歩けた。それよりもブーツの脱ぎ履きがいちいち大変だった。
葬式の日は、隣組の人が予想外にたくさん来てくれて食膳が足りなくなり、私や甥たちなど選ばれし末端の者がロビーで菓子パンをかじるという事態になったが、今回ふつうに精進落としを食べることができた。うまかった。
法要では経文を皆で唱和したが、お経ブックにはひらがながふってあり、ちゅう太がいたら張り切って唱えていただろう。お墓を開いたら地下は棚のようになっていて祖父母の骨壺が並んでいて、ちゅう太がいたら「ちょっとはいってみる」とか言って入ろうとしていただろう。等いろいろ想像し連れて行かなくてよかった、と思った。お膳も一人でじっくり味わえたし。
帰りの電車でものんびり本読んだり寝たりして、帰ってきたらいきなりあわただしくなった。
ボランティア技術講座が修了したのでこれから実戦に入ることになったが、車掌文庫の編集も進めなきゃいけない。さらに間もなく卒園式(という名の演し物てんこもりイベント)、ついでにちゅう太の習い事が増えて宿題をやらせるのが大変。そんな中で突然ライター仕事が入り、仕事なんか6年ぶりなのでペースがつかめず徹夜したら翌日はフラフラ(6年前より確実に衰えている)、というところでちゅう太が中耳炎になった。「子どもの病気」というのは強制シャットダウンみたいなものなのであきらめて寝るしかない。ぬるま湯生活から「働く母親」という新ステージへ、何の準備もないうちに移行してしまい、うまい踊り方がまだつかめない。
雪国と化した実家
道を掘った
土曜日はちょっと早いけど四十九日法要と納骨の予定だった。
金曜夕方茨城を出て、東名高速まではノロノロしつつもなんとか通過。ガラ空きの海老名SAで18時に夕食をとり、ほっこりしたのが最後の余裕。厚木ICを降りたところから車がまったく動かない。厚木ICより先は東名も小田原道路も通行止めになっていた。親戚は来られないかもしれない。窓の外は猛吹雪。そんな中バスが止まったのか歩いてる人が多数。ちょっと停車してる間にもみるみる積もっていく雪。なんで渋滞してるのかわからず、1時間かけて数メートル進むごとに、渋滞原因(ハザートランプ点滅させた車とそれを押している人)が見える。迷惑だなんて怒っていられない、次は我が身かもしれない。
ポータブルDVDを持ってきていたのでちゅう太は一年分のキョウリュウジャーを繰り返し見ている。ICから実家まで7キロくらいの距離を3時間かけてやっと着いたー!!と思ったら、実家の真ん前で雪に埋まって前にも後ろにも動けなくなる。いつも停める裏庭は雪で入れないので、大通りに面した店の前に停めるように言われたのだが、大通りも雪で埋まってるし、店の前の道は近くのバス停ロータリーとつながってる部分なので、バスはもうずいぶん前から運休してるみたいなので、新雪がこんもりと積もっていて、その新雪に向かってズブズブ進んだらこの通り。スノーブーツとユニクロの暖パンで来てよかった。膝まで積もった雪を踏み込みながらちゅう太を連れて実家に行き、ちゅう太を置いて、スコップを借りて、店の前に戻り、車の周囲を雪かきし、やっと進むことができた。家の前じゃなかったら遭難だ。JAFとか呼んでも到着できないだろう。
疲れ果てて歯も磨かずにバッタリ寝たが、夜中じゅう暴風で古い家が揺れる。ボン!ボン!と屋根の雪が落ちる音もする。みんな寝不足だ。それもこれも坊さんが天気予報を甘く見て法事を決行すると決めたせいだ。しかし結局寺も墓地も雪で埋まり、坊さんも仕出し屋も来れないので法事は翌週に延期になった。土日はもう予約いっぱいだったので平日で、それが本当の四十九日目。「お父さんはまだお墓に入りたくなかったんだね」とか、オカルトちっくに納得する田舎の人たち。
翌朝は実家唯一の男手である兄が物凄い勢いで雪かきしまくるのを少し手伝う。すごい大変。ちゅう太は雪遊びに専心。ちゅう太のスキーウェア持ってってよかった。疲れて3時間も昼寝して、もう一泊して日曜に帰ってきた。東名はまだ不通だったため渋滞の246号線で都内まで出たら、首都高が開通してて、そこからはスイスイ帰れた。茨城はぜんぜん積もってなかった。あまりに疲れたので今日は幼稚園休んだ。「終戦の年にもこんな大雪が降った」と母が言っていた。子孫に語り伝える体験ができた。
新旧カメラ2台を並べて同時に撮ったりして遊んでいたちゅう太がたどり着いた境地
父が83の誕生日の一週間前に死んで、10日あまり経った今は日常に戻っている。畑仕事もあとはネギや大根を抜くだけっていう今の時期に、職人として依頼された最後の仕事を締切より早めに仕上げ、年賀状も受付日と同時に出したきちょうめんな父は、入院して11日目、やり残したことも心配事もない状態で松の内が明けると同時に死んで、みんなが無理なく集まれる連休中に葬儀を済ませた。見事である。
祖父母の前例から、親は長生きするもんだと勝手に思い込んでいたので、あっさり死んだ父に驚いている。父もまさか自分が死ぬとは思ってなかっただろう。
母は一人暮らしになってしまった。まあすぐ近くに兄夫婦も姉夫婦も住んでるから大丈夫だと思うけど、今まで父が口うるさく髪を切れとかワンピースを着ろとか言って何とか保ってきた母がやもめになったら一挙にむさくるしくなりそうで心配だ。母は長生きすると思うけど、やっぱり先のことはわからない。というか夫や私だっていつ急に死ぬことになるかわからない。ということはわかっても、どうしようもないんだけど。
父は仕事をみんな片づけてってくれたし、年齢的にも早死にではない。文句のつけようがないので、親族全員の驚きと悲しみの中からすぐ諦めが幅を広げ、葬儀は笑いあり涙ありの盛大かつ和やかなものとなった。親戚やきょうだいが多いのはいいものだ。でもこれから親戚や姉兄も次々死んでいくんだから、身内が多いのはつらいもんだともいえる。ちゅう太にもきょうだいがいたらよかったなと思ったけど、別れが少なくて済むのもまたよし、助け合う相手がいなくても今の葬儀のシステムはよくできていて任せて安心、なんとかなる。ちゅう太は湯灌から骨拾いまで全部に参加し、老人ばかりの集まりに華を添えた。この大イベントをいつまで記憶していられるかわからないけど、良い経験だったと思う。
祖父母の葬儀のときは幼稚園児で、焼き場で元気に運動会をしていた甥(現在20代)が、今回ちゅう太の相手をしてくれて助かった。甥は骨拾いしたことを覚えているという。やはりインパクトの強い場面なんだろう。ちゅう太はおじいちゃんをそのまま埋めて化石にしたら?と提案していたが、焼きあがった骨に興味津々、とうこつ(頭骨)はどれ?などと質問していた。
年末に親父倒れて虫の息(虫は秋の季語だが)
新年あけましておめでとう、と言えるうちに言っておこう。父が倒れて10日あまり経った。関係者全員がもうすぐ確実に死ぬ、と思っているが、意外と持っている(大方の予想は倒れてから1週間だった)。実家に近い兄と姉1は毎日、姉2はちょっと離れてるので隔日、私はもっと離れてるので3日に一度くらい病院に行っている。正月にひどい渋滞で車に長時間乗り続けて腰を痛めたので、昨日はちゅう太と電車で行ってみたら、腰以外も痛くなった。
電車の場合駅まで自転車で行くが、20キロ超えたちゅう太を荷台に持ち上げるのがつらい。さらに重い荷物持って電車とバスで片道2時間以上。その上はるばる行ってもやることがない。ちゅう太がいると重い空気が変わるからいいと言ってくれる者もいるが、まあ邪魔者である。私らが行けば母は何か買っておいたり作ったりするし、兄嫁も気を遣うから、容態に何事もなければ日帰りするほかない。それで今日は筋肉痛で動けない。
今日はちゅう太に掃除をさせテレビ漬けにして私はじっくり昼寝をした。家事を肩代わりし、一人で時間をつぶし、電車でポケモン図鑑見たりしりとしをしながらおとなしく2時間も乗ってられようになったんだから思えば成長したものだ。これが2年前、いや去年でもどうしようもなかっただろう。そういうわけでみんなして、父が死ぬのを待っている。不思議な気持ちだ。この件はたぶん車掌の次の号に載せてもらうのでもう詳しくは書かないと思う。いつになることかわからないが。
折り紙にモールをくっつけたもの
「サンタさんゆびわ」ちゅう太が自分で考えた初のクリスマスプレゼントである。
おしょうがつにつけるようにと言われたが…
もうずーっとずーっとイライラしっぱなしで、疲れが取れないし物忘れが激しいし何もやる気しないしたまにめまいもするし、おかしいと思ったら、どうも私は寝不足らしく、ねまきの上にもう一枚着、ふとんの上にかける毛布を増やしたら数日で諸症状は治った。茨城の冬は寒い。
そして無事平和にクリスマスを迎え、ちゅう太は連日おはようからおやすみまで休む暇なくライダーやキョウリュウレッドカーニバルに変身している。寝不足のままだったら戦極ドライバーもミニティラも叩き壊していただろう。気付いてよかった。
サンタさんたち今年もありがとうございました。
冬休みに入り、ママ友は帰省したりで音沙汰がなくなり、ボランティア講座も年内は終わり、ちゅう太の発表会とか習い事も今週でみな終了。母子の密室生活が始まりかけたところで夫が今日から冬休み。
年内に仕上がる予定だった編み物は終わりそうになく毛糸も足りなくなりそうで、ママ友に売ろうと思って作り出した恐竜ぬいぐるみの出来は微妙で、車掌文庫のしめきりが迫ってるらしいけどまったく他人事のようで動く気もしない。何もかもやりかけのまま新年を迎えそうだが、イライラが治ったら今度は何もかもどうでもいい気分だ。皆様は良いお年を。
ここんとこずっとずっと疲れててやる気が出ない。でもぜんそくが出たら更に面倒だから最低限の掃除はしないといけないし、もうすぐバザーだからマスクとか作んなきゃいけないし、編み物したいのになんかうまく編めくてほどいてやり直してばかりで先に進まないし、ちゅう太は態度が偉そうでムカつくし、園長にもムカつくし、ママ友から頼まれてるチラシの作文が内容的に難しくなってきて面倒だけど乗りかかった船だからやんなきゃいけないし、車掌の指令も次々来るけどやるにはまず古いパソコンを立ち上げなきゃいけないから面倒だし、何もかもおもしろくないのは寒いせいだ。寒いと動けない、比喩とかじゃなく本当に頭も体も動かなくなるので、家に私しかいなくても暖房をつけ、気晴らしに買い物やママ友ランチに行く。「めし食わぬ嫁」と言われた清貧な私はもういない。中年以降は自分で餌ぶらさげ続けてないと前に進めない。
この頃ちゅう太は随分マトモになってきたなあ、と夫婦で話し合った2日後、ちゅう太は出かける支度をなかなかしなくて私を発狂させ、水族館で好みのタイプの女児につきまとい行為をした。どちらの件も説得により引き下がったが、たぶん何が悪いのか本心からはわかっちゃいない。根気よく説明して諦めさせたり別の視点を与えたりするのも、正直疲れた。と思ったところでグレーゾーンの子持ち母の本を読んで、こういうことは今後も続くのだ、とさらに落ち込んだので、説教部屋(風呂)でちゅう太に
「もうママは年取って体が古くなって疲れちゃって元気が出ない」「ちゅう太を怒って暮らしているとますます疲れてどんどん年寄りになる」「でもニコニコ楽しく暮らせたら、もうちょっと若くいられるかもしれない」「年寄りのママと、ちょっとでも若いママとどっちがいいか」
と問うと「わかいほうがいい」と答える4歳でロリコン認定された男である。
縦割り園なので年長になったら責任が増す、ちょうどいいから家でも責任を増してもらう、年長になったら、ちゅう太が朝起きなかったらママも寝る。テレビ見てたらママもテレビ見て出かける支度しない。ちゅう太が誰かに迷惑かけたらママも迷惑かける。ちゅう太がしっかりして家庭を支えてくれ、というような話を風呂が冷めるまでし続けたら、頼られたり大人扱いされると(その場では)張り切るちゅう太はすぐその気になって「おれはママの手をよいしょ、よいしょってひっぱってようちえんにつれてく」と腕を曲げて力こぶを作った。
本で読んだグレーゾーンの子は小学校に入ってから気づかれたので、中学生の現在もだらしなさ等が落ち着いてないけど、ちゅう太は早く気付いた分有利なはずだ。本気で荒療治(本人以上に母親がダメ人間になる)したら効果あるんじゃないか。いや別にダメ人間になんなくても、単に私が就職して家事をちゅう太に分担させるとかでいいんだろうけども。
とあるボランティア技術養成講座に誘われて、一か月経過(3か月で修了)。タイピングができればいいのでわりと楽勝。でも最近というかもうずっと集中力が低下し続けてるし短気でキレやすいのも相変わらずなので、その辺気をつけないとうまくいかない。どうしたら穏やかな人になれるのだろう。
健康診断では去年注意されたコレステロール値が、今年はさらに悪くなっている(何も対策してなかったから当たり前だが)。心電図も微妙。なんかもう健康とか気の持ちようじゃなくて、老化、ってことならどうしようもないから努力する気になれない。
その講座にはタイピングどころかパソコンの起動もおぼつかない老人も交じっていて、私なんか若いほうみたいだから気分がいい。活性化するには若者にまじって刺激を受ける方法もあるが、私のような陰湿な人間は老人に交じって優越感に浸るほうが向いているようだ。
今月のちゅう太はお泊り会、クリスマス会、ヤマハの発表会と晴れの舞台が続く。全部簡単なことのようで微細な準備が無数にあって忙しい。とはいえもう幼稚園も3年目、だいぶ飽きた。イベントにいちいち張り切る気になれない。
勉強とか自分のことをしている間ちゅう太のことは一切思い出さないところをみると、私が仕事に復帰したら育児は(家事も)たぶん一切しなくなる(形の上ではしても実質ネグレクト)。そもそもが普通以下なのにそこまでがんばれる人間ではない。だから小学校に入ったらちゅう太は自力で習い事や買い物に行って宿題やって玄関キーの管理も電話の応対もできて夕飯くらい作れるようになっててもらわないと困る。と思うと仕事復帰より現状維持(たまにガス抜きにボランティアかバイト程度のことでもして)のほうが現実的かなーと思う。でもなんかしたい。さすがに諸々飽きた。こういう感じも集中力と冷静さの欠ける何かの症状かもしれないが。